グリーンベイ・パッカーズ 中心人物紹介

2011 Green Bay Packers
Offense Defense Coach/Administration

 

アーロン・ロジャース Aaron Rodgers | Quarterback | California | Stats | Twitter |
背番号12 | 6-2 (188cm) | 220lbs (100kg) | 7年目 27歳 | 1983年12月2日生 |

押しも押されもせぬオフェンスの大黒柱。先発3年目にしてチームをスーパーボウル制覇に導き、今やリーグを代表するスター選手の1人となった。ドラフト1巡指名から3年間の準備期間とファーヴ引退/復帰/移籍騒動を経て2008年に先発に昇格。巨大なプレッシャーを跳ね返して成長を続け、2年目でプロボウル選出、3年目でスーパーボウルMVPを手に入れた。かつては不可能とも思えた、「ファンにファーヴを忘れさせる」という偉業を成し遂げ、あとは大ケガなくプレーを続けさえすれば殿堂入りも見えてきそうだ。

彼のプレーぶりにはほとんど穴が見当たらない。肩が非常に強く、完璧なメカニックによりクイックリリースで、パスのコントロールも今やNFL随一といってよいほど。キレのよい身のこなしでパスラッシュをかわし、自分の足で貴重な1stダウンを稼ぐ場面もしばしば。課題だった被サックを大幅に減らし、スナップ前のリードでピンチをチャンスに変えることも増えた。試合ごとの波が少なく、自分で試合を壊すことがまずない。実力はすでにファーヴの全盛期を上回っているのではないか。

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ブレット・ファーヴの後継者候補として、カリフォルニア大から2005年のドラフト1巡指名で入団。2年目までは頼りないプレーぶりで、3年目あたりでようやく一人前になった印象だった。そして4年目の2008年春、ファーヴの引退に伴ってついに先発に昇格。ファーヴは変心を繰り返した末、7月になって復帰を決意。ファンを二分する大騒動・大論争に発展した2008年夏だったが、気まぐれな英雄に愛想を尽かしたチームはロジャースを選び、ファーヴはジェッツにトレードされた。

こうしてスターターとなったロジャースの初先発シーズンは見事な内容だった。パス4038ydsと28TDはともにNFL4位、QBレーティングはNFL6位。ファーヴ騒動で倍加したプレッシャーによく耐え、リーダーシップを発揮してチームメイトの信頼を勝ち取った。競り負けが多かったのはディフェンスやスペシャルチームのミスによるもの。オフェンスが逆転ドライブを演出してもキッカーがFGをミスしたり、ディフェンスが再逆転を喰らうことが多く、チームは6勝10敗にとどまった。

先発2年目の2009年も彼は順調に成長を続け、2年ぶりプレーオフ進出の原動力となった。球団史上2位のパス4434yds、30TD、レーティング103.2(いずれもNFL4位)の活躍でプロボウルにも初選出。パスプロテクション不振に苦しみながらも決して無理投げをせず、7インターセプトはNFL最少、3rdダウンでのQBレーティングはNFL1位と勝負強さも際立っていた。先発最初の2年連続で4000ydsパスを達成したのはNFL史上初。NFL最多タイの50サックを浴びながらフル出場したタフネスにも頭が下がる。

優勝候補の一角として迎えた2010年はケガ人続出で苦しいシーズンとなった。先発RBグラントに続き、実質エースレシーバーのTEフィンリーが第5週で戦線離脱。いったん失速したが、ロジャースはWRジェニングス中心の攻撃に切り替え、ディフェンスの大活躍もあってチーム立て直しに成功した。脳震盪による欠場もあってプレーオフ進出は6位ぎりぎり、全戦アウェーとなってしまったが、プレーオフ4戦(QBレーティング109.8)のプレー内容は目覚ましかった。とりわけアトランタでのディビジョナルプレーオフの48得点は見事だった。

厳寒のシカゴでベアーズを倒して迎えた第45回スーパーボウル。彼はWR陣の度重なる落球に苦しみながらもほぼ完ぺきなプレーでチームを引っ張り、徹底したスプレッド攻撃で強力ピッツバーグディフェンス攻略に成功した。スティーラーズ最後の攻撃をディフェンスがしのぎ切ると、スーパーボウルMVPはロジャースの手に。すべての苦労が報われ、ファーヴの影を完全に払しょくした瞬間だった。

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カリフォルニア州北部のチコ市で生まれ育ち、子供の頃のヒーローは49ersのQBジョー・モンタナ。父エドはセミプロリーグでガードとして4年間プレーした。一部校からの奨学金オファーがなくジュニアカレッジに進んだロジャースは、そこで全米2位にランクされる活躍を見せ、わずか1年でカリフォルニア大に転入。直後の2003年シーズン途中からスターターに昇格すると、2年間でパス5,469yds、成功率63.8%、43TD、13INTの大活躍で、同大に久しぶりの2年連続勝ち越しをもたらした。

同大のジェフ・テッドフォードHCは、フレズノ州立大、オレゴン大、カリフォルニア大で、トレント・ディルファー、アキリ・スミス、ジョーイ・ハリントン、デヴィッド・カー、カイル・ボラーといったドラフト1巡指名QBを育ててきたが、どれもNFL入り後は目立った活躍ができていない。ロジャースが初めてフランチャイズQBに育ったのは、3年間の準備期間があったからかもしれない。

2005年ドラフトでは1位指名の有力候補だったが、憧れの49ersはQBアレックス・スミスを1位指名。どこからも指名されず、カメラの前で5時間も待ち続けるロジャースの姿は世間の同情を集めた(回顧記事へ)。雌伏の3年間ののち2008年シーズンにブレークすると、早くもそのシーズン中に大型の契約延長にサイン。この早めのタイミングはパッカーズにとって大当たりだった。

オフシーズンには女性とデートする姿も何度か目撃されているが、まだ決まった相手はいないようだ。ゴルフはスクラッチの腕前で、チャリティ・ゴルフトーナメントへの出席も多い。故郷チコは"Green Bay West"と呼ばれるほど、街ぐるみで彼の応援団になっていて、スーパーボウル制覇は大きな喜びだった。(記事へ

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グレッグ・ジェニングス Greg Jennings | Wide Receiver | Western Michigan | Stats | Twitter |
背番号85 | 5-11 (180cm) | 198lbs (90kg) | 6年目 27歳 | 1983年9月21日生 |

QBロジャースとホットラインを形成する不動のエースレシーバー。ウェスタン・ミシガン大から2006年の2巡指名で入団し、すぐにスターターの座を確保。1年目はレシービング632yds、2年目は920yds・12TDと着実に成績を伸ばした。3年目の2008年には1292yds(NFL6位)を挙げてプロボウル一歩手前に迫り、ドナルド・ドライバーに代わるエースレシーバーに。2010年、12TDを挙げてついに初プロボウルに選ばれるとともに、スーパーボウルでも2TDを記録して優勝に大いに貢献した。

プレースタイルはまさにシルキー・スムーズで、ややゴツゴツした動きをするWRドライバーとは対照的。ごく自然な動きで加速して相手カバレッジを引き離し、スピードを落とさずにキャッチし、ランアフターキャッチでタックルをかわしてロングゲイン。こうしたプレーをやすやすとやってのける、フットボールセンスの塊のようなプレーヤーだ。フットボール頭がよく、優れた嗅覚の持ち主。2009年6月には大型の契約延長にサインした。今やトップクラスのワイドレシーバーとして相手CBたちに恐れられる存在となり、QBロジャースの頼れるメインターゲットとして、長く活躍してくれそうだ。

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ミシガン州西部にあるカラマズーで生まれ育ち、ヤンキースのデレク・ジーターと同じ高校に通った。そのカラマズーにあるウェスタン・ミシガン大に進むと、2年目から3年間スターターを務め、通算パスキャッチ238回、3539yds、39TDなど多くの同大記録を塗り替えた。3年連続1000ydsレセプションを挙げたWRはディビジョンI-A史上11人目。素晴らしい実績のわりに、地味なカンファレンスのため目立たない存在だったが、プロのスカウトの間では評価が高かった。

小学校から友達だったニコールと2005年に結婚し、2007年に長女アミヤ、2008年に次女アレアが生まれている。父グレッグSr.は教会の牧師で、本人も引退後は教会の活動に関わりたい、と語っている。ブロンコスのLBイアン・ゴールド(2007年かぎりで引退)は従弟。(2人の母どうしが姉妹)

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ドナルド・ドライバー Donald Driver | Wide Receiver | Alcorn State | Stats |
背番号80 | 6-0 (186cm) | 190lbs (86kg) | 13年目 36歳 | 1975年2月2日生 |

常に全力でプレーするひたむきな姿勢と明るい笑顔でファンの心をつかんで離さない、究極のナイスガイ。7巡指名入団からたゆまぬ努力でプレーの精度を高め、QBの信頼厚いエースレシーバーへと成長した。2008年にはジェニングスにエースを譲ったが、先発の座は手放さない。2010年シーズンはケガに苦しんで連続1000ydsシーズンが途切れたかわり、悲願のスーパーボウル制覇を経験できた。36歳でプロ13年目、今後は年齢との戦いも注目される。

トップWRとしてはサイズや直線スピードが平凡だが、走り高跳びでオリンピック級だったように、跳躍力やボディバランスなど総合的なアスレチック能力は高く、アクロバティックなジャンピングキャッチを見せてくれる。正確で鋭いルート取りと、集中力の高さ、密集でのハードヒットを恐れない勇気は素晴らしいものがある。

ケガを押してプレーするタフネスも相当なものだ。ハードヒットを喰らって「脳震盪か」と心配されるようなときでも、すぐにフィールドに飛び出していく。前エースのWRアントニオ・フリーマンは27歳あたりがピークで、慢心のせいか急速に衰えていったが、ドライバーは35歳で1000ydsを記録したのだから立派だ。一年を通じて体調管理が完璧なのは、陸上競技での経験が生きているのかもしれない。

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テキサス州ヒューストン出身。彼の貧しい生い立ちについては2002年10月に掲載した「ドライバー物語」 を参照のこと。ディビジョンI-AAのアルコーン州立大ではWRとして才能を発揮するとともに、陸上の跳躍種目でも大活躍。特に走り高跳びでは2m30cmというワールドクラスの記録を持ち、NFL入り後の2000年にもシドニー五輪への挑戦を望んだことがある。(ロン・ウルフGMが許さなかった)

1999年のドラフト7巡指名でパッカーズに入団。最初の3年間は主にスペシャルチーマーとしてロースターに食らいつき、プロ4年目の2002年にブレークした。ケガがちなテリー・グレンを尻目に、QBファーヴのメインターゲットとして大活躍。70回1064ydsを記録して、補欠ながら初のプロボウル出場を果たした。

2003年はケガの影響で数字が落ち込んだが、その後は3年連続で1200ydsを記録。2006年には2回目、2007年には3回目のプロボウルに選ばれた。WRジェニングスにエースの座を奪われた2008年も1012yds、2009年も1061ydsを稼ぎ、6年連続7回目(球団史上1位)の1000ydsを記録している。球団のさまざまな通算レシービング記録ですでに上位に入り、通算パスキャッチ698回は球団史上1位、9615ydsは2位。

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極めて困難な少年時代を経験したドライバーだが、WRにありがちなアクの強さや自己顕示欲はかけらもなく、チーム最高のナイスガイといっていい。孤立しがちな問題児にも進んで手を差し伸べる、まさに気配りの人だ。常にポジティブな態度は後輩たちに良い影響を与え、チームリーダーの一人としてコメントする機会も多い。

ひたむきな努力家、素晴らしいビッグスマイル、不幸な過去、抜群のナイスガイときては、ファンに絶大な人気があるのも当然のこと。これまでのハードワークが実を結んで、2002年11月に初めて大型契約を手に入れた際には、「これでようやく家族を楽にしてやれる」と語った涙の記者会見がこれまた感動を呼んだ。(その後何度も契約延長を重ねている)

講演や慰問やチャリティなど、地域社会へ顔を出した回数は入団以来なんと500回を超え、チーム内でも群を抜いている。2002年に受賞した"Walter Payton NFL Man of the Year"をはじめとして、地域貢献やチャリティ関連の受賞多数。自らの経験を元にした絵本も2冊出版した(12)。大学で知り合ったベティーナと2000年に結婚し、2004年に長男クリスチャン、2005年に長女クリスティーナが誕生している。

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ライアン・グラント Ryan Grant | Running Back | Notre Dame | Stats | Twitter |
背番号25 | 6-1 (185cm) | 226lbs (103kg) | 5年目 28歳 | 1982年12月9日生 |

RBアーマン・グリーンの後継者の座をつかんだエースランニングバック。無名のドラフト外選手ながら、パッカーズ移籍後は目覚ましい活躍でシンデレラボーイとなった。低い姿勢から一瞬の加速でホールを抜け、鋭いカットバックでタックラーをかわしてロングゲインにつなげる。ゾーンブロッキングのスキームにもぴったり合ったプレーヤーだ。少々のケガを押してプレーできるタフネスがあり、RBにしては性格的に地味で自己主張が少ない。

ニューヨーク市の北30kmほど、ハドソン川のほとりにあるナイアクという小さい街の出身。(州境を越えたところにある)ニュージャージーの高校では州最優秀選手にも選ばれている。ノートルダム大2年目にいったんは先発RBとなるが、その後はジュリアス・ジョーンズ(1巡でDALへ)の影にかくれ、目立つ活躍はできなかった。2005年のドラフト外でジャイアンツに入団するが、1年目はプラクティス・スクワッド、2年目は私生活で手を大ケガしてしまいインジャリーリザーブ。

粒ぞろいのRB陣に埋没しかけていた3年目のグラントに目をつけたのがパッカーズだった。トンプソンGMはプロ入り時から彼に注目し、さらに毎年プレシーズンゲーム等でのプレーを精査し、パッカーズのスキームに向いていると判断。出場経験ゼロの選手に(条件なしの)6巡指名権を出すのは破格だが、結果を見れば安い買い物だった。こうして2007年開幕直前のトレードでパッカーズに移ると、ちょうど先発RBブランドン・ジャクソンが大不振。代わったグラントは第8週ブロンコス戦で104ydsの活躍を見せ、先発RBの座をがっちりつかんだ。先発7試合で956yds(平均5.1)、8TDの大活躍でラン攻撃の救世主となり、チームの躍進に大きく貢献した。

翌2008年は大型契約を求めてホールドアウトを敢行。新契約を手に入れたものの準備不足がたたってハムストリングを痛め、不本意なシーズンだった。タフに全試合出場(NFL5位の312キャリー)したため1203yds(NFL9位)を稼いだが、ケガの影響で本来の鋭いカットバックが影をひそめ、ラン1回平均は2007年の5.1ydsから3.9ydsへと大幅にダウン。しかし、移籍3年目の2009年はケガのないシーズンを過ごし、1253yds(平均4.4yds)の活躍でプロボウル繰り上げ出場の一歩手前だった。2010年は開幕戦で足首を負傷してシーズンエンド。優勝に貢献することができなかった。

ランニングスタイルはかつてのエースRBドーシー・レヴェンズによく似ているが、パスキャッチやブロッキングといった部分の完成度ではレヴェンズに及ばない。そのため3rdダウンバックの役割は後輩RBジェームズ・スタークスが担っている。

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ジャーマイケル・フィンリー Jermichael Finley | Tight End | Texas | Stats | Twitter |
背番号88 | 6-5 (196cm) | 247lbs (112kg) | 4年目 24歳 | 1987年3月26日生 |

速さと高さを兼ね備えたリーグ屈指のレシービング・タイトエンド。2008年ドラフト3巡指名でパッカーズに入団し、2年目に早くも大器が花開いた。ほぼ4試合を休みながら、プレーオフを含めてパスキャッチ61回 835yds・5TDを稼ぎ、QBロジャースのフェイバリット・ターゲットに。2010年は第5週でヒザ半月板を負傷してシーズンエンドとなり、チームのスーパーボウル制覇をサイドラインから見守ることに。「次代のトップTE」との評価はすでに確立しており、あとは初プロボウルを目指すだけだ。

難しいパスをいとも簡単に競り勝ち、イージーな落球も非常に少ない。まだ改善の余地があるとはいえ、ルート取りもよいセンスをしている。LBをつければスピードで置いていかれ、DBをつければ高さで勝負にならないので、相手コーディネーターにとってはマッチアップに頭が痛い。実質WRに近い起用法が目立つフィンリーだが、ブロッキングも努力を重ねて向上してきている。

将来的にやや不安が残るのは精神面だろう。プロ1年目の2008年第9週タイタンズ戦直後の生意気発言はちょっとした注目を集めた。その試合でNFL初キャッチを決めたばかりの新人がQBのパスの精度やプレーコールを批判したため、チーム内外で不興を買い、コーチたちからこっぴどく叱られて神妙に謝罪コメント。その鼻っ柱の強さは今でも時おり顔をのぞかせ、優等生タイプの多いチームの中で異色の存在となっている。

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テキサス州東部、人口5400人のダイボール出身。高校では同校記録の通算2217yds、30TDレセプションを記録。TEだけでなくWRやDEやSやKやP(平均37.9yds)もプレーし、なんと1試合平均101スナップも出場(つまりほとんど出ずっぱり)していた。地区の最優秀オフェンス選手に選ばれたほか、バスケットボールでも平均24点20リバウンドの大活躍で、地区のMVPに選ばれている。アリゾナ大からは両スポーツで奨学金をオファーされたが、結局地元の名門テキサス大でフットボールに専念することに。

テキサス大ではレッドシャツ後の1年目(2006年)、TEデヴィッド・トーマス(3巡指名でNE)が抜けると全試合出場(4試合先発)して31キャッチ372yds・3TD。2年目の2007年は初めて全試合に先発して45キャッチ575ydsを挙げた(同大のTE史上3位)。出場資格はまだ2年も残っていたがNFLドラフトへのアーリー・エントリーを選び、21歳になったばかりでパッカーズからの3巡指名を受けた。

妻コートニーとの間には長男ケイデン(2008年)が生まれ、他の女性との間に長女ジェイラ(2005年)もいる。テキサスA&Mで活躍したRBジョヴォスキー・レーンは腹違いの兄で、生まれが2ヶ月弱しか違わない。フィンリーは珍しいことに、大学でもパッカーズでも両親の名前をプロフィールに載せておらず、祖母の名前だけ。彼とRBレーンは同じテキサス東部の5マイルほど離れた街で、それぞれの母方の祖母に育てられた。子供の頃から毎日のように一緒に遊び、大学ではライバル校同士で、「1年間いばる権利」を賭けて毎年対戦した。

NFL入り後もバスケには熱心で、下記FSコリンズらとともにバスケットボールチーム"Green Machine"を組み(記事へ)、オフシーズンになるとウィスコンシン各地を転戦してチャリティーゲームを行っている。

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チャド・クリフトン Chad Clifton | Offensive Tackle | Tennessee |
背番号76 | 6-5 (195cm) | 320lbs (145kg) | 12年目 35歳 | 1976年6月26日生 |

クォーターバックの背後を守る左タックル。素晴らしいサイズとアスレチック能力に恵まれ、特にパスプロテクションの技術は際立っている。オーランド・ペース(STL)やウォルター・ジョーンズ(SEA)ら殿堂級LTがいたためにプロボウルは補欠どまりの年が多かったが、2007年にはついにプロボウル初選出。長らく一流左タックルとして活躍してきた彼も最近はヒザや肩などケガが多く、チームにとっては後継者の育成が重要課題となっている。

優れたパスプロテクション能力と比べると、立会い一発で押し込むような爆発的なランブロック能力はなく、そのあたりがプロボウルの常連になれない理由だろう。性格は比較的地味でおとなしく、OL陣最年長ながら、RTタウシャーやCウェルズと比べてメディアに積極的に発言することが少ない。骨盤の大ケガ(下記参照)の影響は残っていないが、両ヒザ腱炎の痛みをこらえながらのプレーが続く。

2009年シーズンは足首の捻挫に苦しんで途中退場4試合、欠場4試合。おかげでチームはあやうくシーズンが台無しになるほどのパスプロ崩壊に苦しんだ。2010年序盤もスランプに陥ったが、その後立て直して優勝に大きく貢献、2回目のプロボウルにも選ばれた。チームは後継候補として2010年にOTブライアン・ブラガ、2011年にOTデレク・シェロッドをドラフト1巡指名したが、クリフトンはパスプロテクションの技術で先発の座を守っている。

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テネシー大では4年間通してスターター。1年目だけ右タックルで、2年目は左タックルとしてQBペイトン・マニングの背後を守った。その年は全米王座を逃したものの、マニングが抜けた1998年シーズンにはフィエスタボウルでフロリダ州立大を倒し、13勝0敗で全米チャンプに。同大は彼のいた4年間に43勝7敗と素晴らしい成績を残した。

2000年当時パッカーズは左タックル補強は不要と見られていて、ロン・ウルフGM(当時)が彼をドラフト2巡指名したことに疑問を呈する声も少なくなかった。しかしシーズンが始まると新先発LTマイク・ウォールが大苦戦。第6週@デトロイト戦でついにパスプロが崩壊し、新人クリフトンが試合途中から出場することになった。翌週からスターターとなると、以後はマイク・ウォールもロス・ヴァーバも彼から先発LTの座を奪うことはできず、同期入団のRTマーク・タウシャーとともに10年にわたってスターターを務めてきた。

順調に成長したクリフトンだが、2002年シーズンに大きな危機が訪れた。第12週@タンパベイでDTウォーレン・サップから(合法だが汚い)ブラインド・ヒットを受け、左右の骨盤を結ぶ腱を断裂するという珍しい大ケガを負ったのだ。試合後にはマイク・シャーマンHC(当時)がDTサップに詰め寄り、カメラの前で怒鳴り合う事態に発展した(記事へ)。クリフトンはしばらく病室で寝たきりとなり(記事へ)、シーズンエンドどころか現役続行も危ぶまれるほどだったが、苦しいリハビリを同期のタウシャーとともに乗り越えて翌年ぶじに復帰。因縁のバッカニアーズ戦でも相手パスラッシュを完封し、見事にリベンジを果たした。その後のルール改正により、問題のプレーはアンネセサリー・ラフネスの反則となっている。

出身地は人口1万人ほどのテネシー州マーティン市で、2007年1巡指名のDTジャスティン・ハレルは同郷のうえに大学の後輩でもある。妻キャンディとの間には2005年に長男コービン、2007年には次男クルーズが生まれている。キャンディは2003年にウィスコンシンで司法試験に合格していて、さまざまなチャリティ活動も夫婦で参加することが多い。

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ジョシュ・シットン  Josh Sitton | Offensive Guard |  Central Florida | Stats | Twitter |
背番号71 | 6-3 (191cm) | 318lbs (144kg) | 4年目 25歳 | 1986年6月16日生 |

パスプロテクションもランブロックも優れた先発右ガード。2008年ドラフト4巡指名でセントラル・フロリダ大から入団し、2年目からスターターに定着した。先発2年目の2010年にはOL陣最高の働きで優勝に貢献。惜しくもプロボウルを逃したものの、NFL Alumni AssociationからNFL最優秀オフェンシブラインマンに選ばれた。2011年開幕前には総額$34.95ミリオンの6年契約にサインし、高給取りの仲間入りを果たしている。

広い肩幅など体格に恵まれ、パワーと柔軟さを兼ね備えている。パスプロテクションはミスがほとんどなく、2010年に彼が許したサックはチーム最少のわずか2回。相手のラッシュを丸め込むように止めてしまう。ランブロッキングは非常にパワフルかつアスレチックで、Cウェルズとのコンビで走路を切り開くこともしばしば。ランブロックでのミスも2010年のチーム最少だった。

タフでアグレッシブな、優秀なオフェンシブラインマンに典型的なメンタリティを備えている。

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海軍航空基地でも有名なフロリダ州北西端ペンサコーラ出身。高校ではOLとしてオール・フロリダ州の2ndチームに選出、DLとしても最後のシーズンには50タックル、6サックを決めている。オーバーン大など一流大からの奨学金オファーを断り、「すぐに出番がもらえるから」とセントラル・フロリダ大を選択。その読みどおり1年目は右ガード、2年目からは主に右タックルとして活躍。

全米では無名でコンバインにも紹介されなかったが、RBケヴィン・スミス(3巡でDETへ)を見るため同大のプロ・デイに集まったスカウトたちの前でよい動きを見せて多少注目された。もっとも高く評価したのがパッカーズ。4巡指名直後に母ロレットが慌ててパッカーズの帽子を買ってきたがシャツは間に合わず、彼はパッカーズの帽子とショッキングピンクのシャツで地元TV局のインタビューに応じる度胸を見せた。

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B.J.ラジ  B.J. Raji | Nose Tackle/Defensive End | Boston College | Stats | Twitter |
背番号90 | 6-2 (188cm) | 337lbs (153kg) | 3年目 25歳 | 1986年7月11日生 |

パワーとスピードで相手OLを蹂躙するノーズタックル兼ディフェンシブエンド。2009年のドラフト1巡9位で入団、1年目は足首捻挫もあって今ひとつだったが、2年目の2010年は素晴らしい働きでディフェンス向上に貢献した。NFC決勝ベアーズ戦では試合を決めるインターセプトリターンTDを決め、一気に全米の知名度を上げた。すでにリーグ屈指の若手ノーズタックルであり、初プロボウルも遠くない。

スピード、クイックネス、ボディバランスを兼ね備え、並外れた下半身のパワーで一気に相手を崩すのが持ち味。非常に重心が低いので、相手OLにとってはコントロールするのが厄介だ。3-4隊形の一般的なNTと違ってパスラッシュも非常によく、2010年はチーム2位タイの7.5サックを挙げた。そのため休む暇をなかなか与えられず、2010年はディフェンス全体の85%に出場(DL陣ではダントツ)。パスラッシュ力を活かすため、2011年はピケットと入れ替わり、DEでのプレーの方が多くなっている。

たいへん親しみやすい人柄で、試合中でもひょうひょうとして、まるで緊張することなどないかのよう。

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ニュージャージー州北部のワシントン・タウンシップ出身。高校ではシーズン7.5サックなどの活躍でオール・ニュージャージーにも選出。OGも兼ねていた。ボストン・カレッジでは3年間スターターを務め、オール・アメリカンの3rdチームにも選ばれた。学業成績の問題で2007年シーズンを棒に振ったが、けっきょく社会学の学位を取って卒業している。

本名はブサリ・ラジJr.という。父はナイジェリアからの移民で、両親ともペンテコステ派の牧師をしている。弟のコーリー(身長198cm)は同じボストン・カレッジのバスケットボールで先発フォワードとして活躍し、海外でプロとしてプレーするようだ。

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ライアン・ピケット Ryan Pickett | Nose Tackle | Ohio State | Stats |
背番号79 | 6-2 (188cm) | 330lbs (150kg) | 11年目 31歳 | 1979年10月8日生 |

重心が低く横幅の広い体格で、ディフェンシブラインの中央を支える大型ノーズタックル。2001年の1巡指名でラムズに入団し、5年かけて順調に成長したところでパッカーズにFA移籍。派手さはないがタフで安定感のあるプレーを続けている。2009年に3-4ディフェンスが導入されると、先発ノーズタックルとして期待以上の活躍を見せ、ラン守備NFL1位への躍進に貢献。2010年春には総額$24.925ミリオンの4年契約にサインした。

タフでフィジカルなランスタッファーで、ポイントオブアタックでダブルチームをがっちり受け止める。そうして、後ろのILBたちが自由に動けるようにするのが彼の役目。320ポンド級にしてはフットワークが軽く、身軽にパスートする。前任者のDTグレイディ・ジャクソンと比べると一発ハマった時の迫力はないものの、ケガが少なくプレー内容が安定していて信頼できるプレーヤーだ。

俊敏なペネトレートで相手ラインを抜き去るようなパスラッシュ力はなく、プロ9年間で合計8.5サックしか挙げていない。しかし2006年はパスを叩き落したのが5回あり、ダントツのチーム1位だった。2010年にはB.J.ラジに先発NTの座を譲ってDEに回ったが、2011年は再びNTでのプレーが増えている。

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フロリダ州西部のゼファーヒルズ出身。高校のコーチは、すでに300ポンドあったピケットをミドルLBで起用する奇策を打ち出し、彼は(おそらく)全米最重量のLBとして同高校記録の142タックルを挙げる活躍で応えた。オールアメリカンにも選ばれ、名門オハイオ州立大に進学。レッドシャツを経ずいきなり1年目から先発DTとなり、3年間活躍を続けると、1年早くプロ入りする道を選んだ。大学でのチームメイトにはLBナイル・ディッグス(GB→CAR)もいたが、パッカーズではちょうどすれ違いとなった。

2001年のドラフト1巡29位でラムズに入団。1年目は不本意な内容だったが、ビル・コーラーDLコーチの厳しい指導もあって2年目は急成長、先発に昇格してDL陣最多(チーム2位)の107タックルを挙げた。3年目・4年目はケガにも悩まされたが、5年目にはNFLのDL中最多の115タックルを挙げる活躍を見せた。翌2006年春にフリーエージェントとなり、総額$14ミリオンの4年契約でパッカーズにやってきた。当初パッカーズはさほど熱心でなかったが、FA市場で思ったほど人気がなかったので獲得に乗り出したらしい。

ジェニファー夫人との間には三女一男。2004年に長女ジル、2006年に次女アビゲイル、2007年に長男ライアンJr.、2008年に三女リディアが生まれている。ニックネームの"Big Grease"は父ルービン(同じような大男)のあだ名を引き継いだ。動きがスムーズ、という意味らしい。次兄ブッカーはマイアミ大でLBとしてプレーし、ルーキーFAとしてコルツに入団したこともある。長兄ルービンJr.もCFLやセミプロでプレーしていた。ゼファーヒルズでは有名なフットボール一家で、末っ子の彼は父や兄たちにしごかれながら育ったという。

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クレイ・マシューズ Clay Matthews | Outside Linebacker | Southern California | Stats | Twitter |
背番号52 | 6-3 (191cm) | 250lbs (113kg) | 3年目 25歳 | 1986年5月14日生 |

パスラッシュの主役を担う左アウトサイドラインバッカー。2009年ドラフト1巡指名でパッカーズに入団すると、キャンプではケガで出遅れたものの、初先発の第4週ヴァイキングス戦でファンブルリターンTDを挙げたのを皮切りに、シーズン10サック、45.5プレッシャー、35ノックダウン(すべてチーム最多)の大活躍。新人王投票では3位、新人ながらプロボウル(繰り上げ)出場を果たした。

2010年は13.5サックなどディフェンスMVPの次点に迫る大活躍でディフェンスの中核となり、スーパーボウルでは試合を決めるファンブルフォースで勝利に貢献した。もちろん2年連続、マシューズ一族としては計20回目のプロボウル選出だった。

止まることのないモーター、スピードとトルクを落とさずに曲がることができるパスラッシュが最大の魅力。ラン守備はポイントオブアタックで力強く、パスカバレッジの動きもスムーズで、3-4のアウトサイドLBをプレーするために生まれてきたような選手だ。ケヴィン・グリーンOLBコーチにとっては夢のような初弟子だろう。精神的にもしっかりしたハードワーカーなので言うことはないが、キャンプでは3年連続でハムストリングを痛めているのが気になるところ。

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ロサンゼルスに近いカリフォルニア州アゴーラ・ヒルズ出身。NFLでは有名なフットボール一家に生まれた。後述のように「クレイ」の名前は3代目で、正式には「クレイ・マシューズIII世」となる。高校ではLBとTEをプレーし、父クレイJr.がディフェンシブコーディネーターだった。

父たちの母校USCにウォークオンで入学し(奨学金は入学3年目から)、最初はやせっぽちのセーフティだった。タレントひしめく同大LB陣の中ではスターターになれず、スペシャルチームで活躍しながら体作りに励んだ。大学4年目にようやくスターターの座をつかむと大活躍を見せ、一躍ドラフト上位指名候補となった。国際関係学(副専攻は商法)の学位を取ってドラフト前の12月に卒業。ワンダーリックテスト27点もLBの水準をかなり上回る。

パッカーズでは新しく導入する3-4ディフェンスの人材が不足していたため、2009年ドラフトではトンプソンGMが珍しいトレードアップを敢行(キャリア2回目)。2巡9位に3巡9位と3巡19位を足して1巡26位にトレードアップするのは、指名権バリューチャートからすればかなりの損(1巡18位か19位に相当)だが、結果的には大成功となった。大学では遅咲きだったがプロでは早熟だった。

なお、この年のUSCのLB陣は1巡15位ブライアン・クッシング(HOU、新人王)、1巡26位マシューズ、2巡6位レイ・マウアルーガ(CIN)、4巡4位カルーカ・マイアヴァ(CLE)の4人がドラフト指名される空前の豊作だった。

華麗なマシューズ一族は以下のとおり。

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チャールズ・ウッドソン Charles Woodson | Cornerback | Michigan | Stats |
背番号21 | 6-1 (185cm) | 202lbs (92kg) | 14年目 34歳 | 1976年10月7日生 |

現代NFLを代表する名コーナーバック。経歴は華麗そのもので、ミシガン大ではディフェンス選手として史上初のハイズマン賞に選ばれ、レイダーズ入団後もディフェンス新人王から4年連続プロボウル選出。そこからはケガに苦しんでプレー内容が下降したが、2006年にグリーンベイに移籍してCBアル・ハリスとコンビを組むと、かつての輝きがもどってきた。移籍後4年間で計28インターセプトを挙げ、2009年には33歳にしてNFL最優秀ディフェンス選手賞に。2010年には悲願の優勝リングを手に入れた。

サイズとアスレチック能力、そして何よりフットボールセンスに恵まれた万能選手で、特に素晴らしいのはボールスキル。レシーバーの寸前でボールを叩き落したり、レシーバーの前に体を滑り込ませてボールを奪い取る技術は素晴らしい。タックルは確実でランサポートがよく、ブリッツァーとしても効果的なプレーをする。32歳となってもプレーぶりに衰えは見られず、彼らしいプレーを続けている。

逆サイドにCBアル・ハリスがいたこともあってレイダーズ時代よりも自分サイドにパスが来やすくなり、それがインターセプトの量産につながった。プレスカバレッジ能力の高いCBハリスを相手エースWRにぴったり張り付け、CBウッドソンはニッケルの位置からブリッツにも入ったり比較的自由にボールを狙う、といったように、パッカーズは2人の適性を活かした起用法をしている。2009年のドム・ケイパースDCは彼をさまざまなポジションに入れてオールラウンドな能力を活用し、それが最優秀ディフェンス選手賞につながった。

NFL最優秀ディフェンス選手賞(1971年に制定)に選ばれたのは、パッカーズでは1998年のDEレジー・ホワイト以来2人目。コーナーバックの受賞は比較的少なく、1994年のCBディオン・サンダース以来、15年ぶり5人目。2009年のウッドソンは他にもNFCディフェンス部門の月間MVPを3回受賞(NFL史上3人目)するなど、まさに完璧なシーズンだった。ディフェンス選手によるタッチダウン通算8回(INT7回・ファンブルリカバー1回)はすでに球団史上最多記録。

レイダーズ時代にはパーティ三昧の奔放な私生活をおくり、ビル・キャラハンHCの指導力を公に批判したことも。しかしパッカーズ移籍後はずいぶん大人になり、グリーンベイでの暮らしを楽しむようになっている(回顧記事へ)。レイダーズ時代後期はケガに苦しんでタフネスが疑問視されたが、移籍後はさまざまなケガを抱えながらもプレーを続け、4年間で2試合しか欠場していない。

移籍直後はミニキャンプを欠席するなどコーチとの折り合いも悪く、一匹狼的な雰囲気を醸し出していた。しかし最近はディフェンシブバック陣のリーダー役を積極的に務め、豊富な経験と知識を若手たちに進んで分け与えている。FSニック・コリンズやCBトラモン・ウィリアムズがプロボウラーに成長したのも、彼の指導が大きかった。2010年シーズンはリーダーとしてチーム全体を鼓舞することも多く、NFC決勝に勝ったあとのスピーチ(ビデオ)は球団史上に残る名場面だった。

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ミシガン州境に近いオハイオ州フリーモントの出身。高校ではRB兼DBとして大活躍し、通算3,861ydsラッシング466得点を記録して州の最優秀選手Mr.フットボールに選出された。同賞はRBロバート・スミス(MIN)、RBトニー・フィッシャー(GBなど)、RBモーリス・クラレットも受賞している。名門ミシガン大に進むと(レッドシャツを経ず)1年目の第3戦から先発CBとなり、3年いっぱいまで連続出場。パントリターナーを兼任し、WRもプレーした。1997年シーズンには無敗の全米王座に加え全米最優秀選手ハイズマン賞(ディフェンス選手としては史上初)を受賞し、1年早くプロ入りする道を選んだ。

1998年のドラフト1巡4位でレイダーズに入団すると、1年目はディフェンス新人王に選ばれ、プロボウルは4年連続、オールプロは2年目から3年連続で選ばれている。しかし2002年に肩を負傷して8試合欠場すると、それ以後はケガがちでプレー内容も悪くなった。スーパーボウルはケガを押してインターセプトを挙げる活躍をしたものの、翌年からシーズン4勝、5勝、4勝とチーム不振が続くと個人成績も悪化。

レイダーズは2004年・2005年と連続フランチャイズ指名で引き留めたが、2005年10月に脚を骨折してシーズンを終えると、2006年春は再契約をせず初めてフリーエージェントとなってパッカーズと$39ミリオンの7年契約を結んだ(記事へ)。契約ボーナスが少なめでロースターボーナスとインセンティブが非常に多く、「1試合出るごとに$56,000」とケガのリスクにに配慮した内容。その後の活躍からすれば、非常にリーズナブルな値段だった。

ミシガン大はこれまでに3人のハイズマン受賞者を輩出しているが、1997年のウッドソンの前に受賞したのが1991年のWRデズモンド・ハワード。ハワードはプロ入り後レシーバーとしては大成しなかったが、リターナーとしては成功し、1996年パッカーズのスーパーボウル制覇に大きく貢献したのがキャリアのピークだった。優勝直後にレイダーズにFA移籍し、1年だけウッドソンのチームメイトだった。

いまだに独身だが、長男チャールズJr.が2009年に生まれている。オフシーズンはフロリダ州オーランドとジョージア州アトランタで生活する。華麗な経歴のいっぽうで、私生活を明らかにすることは少ない。北カリフォルニアのナパ・ヴァレーでブドウ園を手に入れ、2008年からワイン・ビジネスに乗り出している。

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トラモン・ウィリアムズ Tramon Williams | Cornerback |  Louisiana Tech | Stats | Twitter |
背番号38 | 5-11 (180cm) | 191lbs (87kg) | 5年目 28歳 | 1983年3月16日生 |

相手レシーバーを封じ込める一流コーナーバック。大学はウォークオン入学、プロ入りはドラフト外と陽の当たらない道を歩んできたが、プロ4年目の2010年に急成長して初プロボウルに選出。プレーオフでもインターセプトを連発して優勝に貢献し、リーグ屈指のシャットダウン・コーナーとよばれる存在になった。2010年11月には総額約$33ミリオンの契約延長を済ませている。

チーム屈指のスピードを持ち、身長は高くないが腕が長く、素晴らしいジャンプ力がある。相手エースWRとのマッチアップも多いが余裕をもって並走でき、嗅覚やボールスキルも高い。CBウッドソンを自由に動かすことができるのも、彼がWRを1人シャットアウトできるおかげだ。おそらく最大の特長は研究熱心さで、長時間のフィルム・スタディに加え、ミーティングルームでもびっしりとノートをつけている。人柄は非常に地味で、目立つ発言をしたり激高することがない。

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ルイジアナ州ナポレオンヴィル出身。高校ではRBブランドン・ジェイコブス(NYG)とチームメイトだった。フットボールとバスケに加え、陸上でも幅跳びや三段跳びで州大会の上位に入賞。しかし大学チームからはまったく声がかからず、電気工学を学んでエンジニアになろうとルイジアナ工科大へ。そこで同大のゲームでDBたちを見て、これなら自分でもやれるはずだと思い、トライアウトを受けてウォークオン(奨学金なし)でフットボール部へ。3年目と4年目はスターターを務め、社会学とコンピュータ工学の学位を取って卒業した。

2006年ドラフトではどのNFL球団からも指名されず、ドラフト外でテキサンズへ。開幕前に解雇されてパッカーズのプラクティス・スクワッドに加わった。翌2007年には初ロースター入りを果たし、不振のCBブッシュを追い抜いて3番手/ニッケルバックの座をつかんだ。そのまま両プロボウルCBの下で経験を積み、2009年シーズン半ばにCBアル・ハリスが負傷すると先発に昇格。翌2010年は不動のスターターとして大活躍し、6インターセプトを挙げて初プロボウルにも選ばれた。パントリターナーも兼ねていたが、2011年には新人WRランドール・コブにその役目を譲っている。

シャンテル夫人との間にトラモンJr.が生まれている(2010年9月)。今でもバスケットボールを趣味として楽しみ、オフにはTEフィンリーやWRジェームズ・ジョーンズなどとチームを組んでウィスコンシン各地を転戦することも。(記事へ

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ニック・コリンズ Nick Collins | Free Safety | Bethune-Cookman | Stats | Twitter |
背番号36 | 5-11 (180cm) | 207lbs (94kg) | 7年目 28歳 | 1983年8月16日生 |

フィールド最後方を守るフリーセーフティ。インターセプトを量産する"Ball Hawk"軍団の一翼を担っている。入団1年目からスターターを務め、2年目・3年目は伸び悩んだものの、4年目の2008年に7インターセプト(うち3TD)を挙げて一躍プロボウラーとなった。2009年にも6INTを挙げてプロボウルに選ばれると、2010年はCBウッドソンやCBトラモン・ウィリアムズとプロボウルトリオに。

特長はなんといっても身体能力で、40yds走4.37秒(プロ入り時)はCBとしてもかなり速い部類。セーフティとして経験を積むにつれ、恵まれたアスレチック能力をようやく活かせるようになってきた。とくによくなったのがボールスキル。ボールの来る寸前にパスコースに飛び込み、捕ってから敵陣深くまでリターンする能力も素晴らしいものがある。2010年3月には総額$26.7ミリオンの4年契約にサインした。

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フロリダ州西北部に位置するクロスシティ出身。高校ではQBとRBとDB、さらに陸上とバスケもプレー。父の母校でもあるベスーン・クックマン大(ディビジョンI-AA)に進むと、1年目は学業成績の問題で出場資格が得られなかったが、2年目シーズンの終盤からストロングセーフティとしてスターターに定着。2003年と2004年はフリーセーフティとして先発、合計12INTを決めて2年連続でオールMEACに選ばれた。同大の2年先輩にはCBラシーン・マシス(JAX)がいて、同じくドラフト2巡指名からプロボウラーとなっている。

マイナー校であるため知名度は低かったが、パッカーズはダレン・シャーパーの後継者として2005年のドラフト2巡でコリンズを指名(1巡はQBロジャース)。プロ1年目から不動のスターターを務めている。なお、パッカーズで2年連続プロボウルに選ばれたセーフティは90年代のリロイ・バトラー以来。

アンドレア夫人との間に一女二男。オフシーズンにはパッカーズのチームメイトともにバスケットボールチーム"Green Machine"を組み(記事へ)、ウィスコンシン各地でチャリティーゲームを行っている。

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マイク・マッカーシー Mike McCarthy | Head Coach |  Baker |
前職 49ers オフェンシブコーディネーター| 在任6年目 | 1963年11月10日生 47歳 |

オフェンス構築に長けた優秀なヘッドコーチ。2006年にパッカーズのヘッドコーチに選ばれたときはダークホース的存在だった。しかしファーヴ最終年の2007年にNFC決勝進出、翌2008年夏にはファーヴ引退/復帰の大騒動を乗り越えてよくチームをまとめた。2009年にはQBロジャースでプレーオフ初進出、2010年には初のスーパーボウル制覇を果たし、すでに2回目の契約延長にサインしている。

ビル・ウォルシュ → ポール・ハケットの流れをくむウェストコーストオフェンス派としてオフェンスのプレーコーラーを兼ねる一方、ディフェンスはコーディネーターに一任するタイプ。ノーバックの5WR隊形を連発するかと思えば超保守的なダブルFB隊形を使うなど、常識にとらわれない多彩なパッケージを繰り出して相手ディフェンスを翻弄する。

フットワークを重視したQB指導はNFLじゅうから高く評価され、いまや若手QB育成のエキスパートの1人と見なされている。就任5年目でのスーパーボウル制覇は1996年のマイク・ホルムグレンHCと同じ。どちらも前職は49ersのオフェンシブコーディネーターだった。人事権を求めてシーホークスに移籍したホルムグレンとは違い、これまで人事面でトンプソンGMと足並みが乱れたことが一度もなく、ヘッドコーチの仕事に注力しているようだ。

アイルランド系カトリックとしてピッツバーグに生まれ育った消防士の息子。まさにタフガイの要素が揃っている。とっつきにくいトンプソンGMとは対照的に、プライベートでは比較的口数が多く親しみやすい人柄。パッカーズ以前はヘッドコーチ経験が全くなかったが、リーダーシップ面でも毎年成長してきている。選手との距離の取り方がうまく、ロッカールームの雰囲気や士気を把握・コントロールすることを重視する。

◆ ◆ ◆

ピッツバーグ出身。父は元警官・消防士で、バーを経営。高校時代の彼はタイトエンドとラインバッカーを担当し、野球・バスケ・ゴルフもプレーした。NAIAのマイナー校ながらベイカー大(カンザス州)でTEとして活躍し、オール・カンファレンスに2回選出。1986年にはNAIAディビジョンIIでの全米準優勝にキャプテンとして貢献した。

大学を出たあとGraduate Assistant(院生助手)としてフォート・ヘイズ州立大(カンザス州)でコーチの道に。1989年にポール・ハケットHCの誘いでピッツバーグ大のQBコーチとなり、49ers流のウェストコーストオフェンスを学ぶ。最初は無給だったため、有料道路料金所の深夜勤務で生活費を稼ぐこともあった。1993年にはハケットについてカンザスシティ・チーフスの"quality control"となり、ついにNFL入りを果たした。

1995年にはチーフスのQBコーチに昇格し、QBスティーヴ・ボノやQBリッチ・ギャノンを指導。1999年にはパッカーズでQBコーチとなったが、レイ・ローズHCとともに1年だけで辞任。2000年から5年間セインツのオフェンシブコーディネーターを務め、QBアーロン・ブルックスを擁してプレーオフ進出も果たした。2006年1月にはショーン・ペイトンなどライバルを退け、トンプソンGMからパッカーズの新ヘッドコーチに選ばれた。

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前妻との間に長女アレクサンドラ(現在大学生)がいるだけだったが、2008年にグリーンベイの地元女性ジェシカ(前夫はパッカーズ理事)と再婚。彼女の連れ子、ジャックとジョージ(2人とも小学生)がいるうえに、2008年に次女ガブリエル、2011年に三女イザベラが生まれ、にぎやかな家族となっている。

Mike McCarthy Coaching Career
Year Team Position Head Coach
1987-88 Fort Hays State University Graduate Assistant John Vincent
1989-91 University of Pittsburgh Quarterbacks coach Paul Hackett
1992 University of Pittsburgh Wide Receivers coach Paul Hackett
1993-94 Kansas City Chiefs Quality Control Marty Schottenheimer
1995-98 Kansas City Chiefs Quarterbacks coach Marty Schottenheimer
1999 Green Bay Packers Quarterbacks coach Ray Rhodes
2000-04 New Orleans Saints Offensive Coordinator Jim Haslett
2005 49ers Offensive Coordinator Mike Nolan
2005- Packers Head Coach  

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テッド・トンプソン Ted Thompson | General Manager |  Southern Methodist |
前職 シーホークス スカウト部長 | 在任7年目 | 1953年1月17日生 58歳 |

選手人事を担うジェネラルマネージャー。大物FAには滅多に手を出さず、徹底したドラフト中心、再契約中心、ケミストリー重視のチーム作りは現代NFLの中で異彩を放っている。就任最初のドラフトでQBロジャースを1巡指名し、その後も長期的視野に立ったドラフト戦略が成功。2008年夏にはファーヴ騒動を乗り越えてロジャース時代の幕を開き、2010年にはついにスーパーボウル制覇を成し遂げた。ほとんどが彼の獲得した選手で、この優勝チームは彼の作品と言っていい。

おそろしく控えめな人柄で口下手。選手と親しく付き合うことは少なく、親しいと言えるのはWRドナルド・ドライバーぐらいらしい。定例会見では無味乾燥なコメントばかりで、興味深い話は滅多に出てこない。メディアが苦手で、TVカメラの前では常に表情が固まっている。ファンにとっては3月のFA市場がまったく楽しくないので不評だったが、いまでは彼のやり方が理解され、感謝されるようになっている。

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テキサス州東端の田舎町アトランタ出身。牧場主の息子として生まれ、牧場の仕事を手伝いながら育った。高校時代はRB、LB、キッカーをプレーしたヴァーサタイルなアスリートで、バスケットボール、野球、陸上、ゴルフでも活躍した。サザン・メソジスト大では3年間LBを務め、そこで(後の)名将バム・フィリップスと出会った。

大学を出た1975年、彼はどこからもドラフト指名されず、HC兼GMとなっていたバム・フィリップスに誘われてヒューストン・オイラーズにドラフト外入団。控えLB兼スペシャルチーマーとして、細く長くチームに貢献した。現役10年間で先発はわずか8試合。サイズでもアスレチック能力でも劣っていた彼が10年間もプレーできたのは、ハードワークとフットボールIQの高さのたまものだ。緊急時のキッカーとしてPATを4回成功させたゲームもあった。

現役時代のチームメイトには、QBウォーレン・ムーン、RBアール・キャンベル、OTブルース・マシューズ(クレイの叔父)、OGマイク・ムンチャック(現タイタンズHC)といった殿堂入り選手がおり、Sマイク・ラインフェルト(現タイタンズGM)とは親友となった。

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1984年までプレーして現役を退いたが、望んでいたコーチの仕事はなく、ヒューストンで7年間フィナンシャル・プランナーをしていた。1991年、くすぶっていた彼の運命を変えたのが前述のマイク・ラインフェルト。ウィスコンシン州出身のラインフェルトはパッカーズでサラリーキャップ担当を務め、1991年にはCFO(財務責任者)にまで出世していた。その彼が、親友トンプソンのスカウティングの才能を見込み、ロン・ウルフGMに紹介したのだ。

GM直属のアシスタントとしてスタートした彼の最初の仕事の1つが、ファルコンズの新人QBブレット・ファーヴの映像を見てレポートを書けというもの。そうしてウルフの下でスカウティング修業を積み、そこからの出世は早かった。翌年にはプロ人事部長、1997年には人事部長となり、90年代半ばのパッカーズ黄金期に貢献した。

2000年にはマイク・ホルムグレンHCの誘いでシーホークスの副社長に。最終決定権はホルムグレンにあったものの彼がスカウティング部門を切り盛りし、とくにドラフト戦略は彼が一手に担った。RBショーン・アレクサンダーやOGスティーヴ・ハッチンソンなど、2005年シーズンのスーパーボウル進出チームを作り上げたのも彼の功績が大きいという。

そして2005年1月、マイク・シャーマンHCからGM職を剥奪したボブ・ハーラン社長は、ロン・ウルフ元GMの口添えもあり、後任のジェネラル・マネージャーにトンプソンを選んだ。その後の活躍はよく知られているとおり。就任最初のドラフト指名でQBロジャース、2巡がFSニック・コリンズ。翌2006年にはシャーマンHCを解任してマッカーシーHCを後任に据え、FAでCBウッドソン、ドラフトでWRジェニングスと、後のスーパーボウル制覇につながる中核選手を次々と獲得してきた。

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大学を出るときに恋人との結婚を断念し、フットボールのキャリアを追い求めた彼はいまだに独身。スカウトの世界に入ってからはますます仕事漬けだ。休暇には恩師バム・フィリップスの持つ牧場で過ごし、その息子のウェイド(前カウボーイズHC)とも家族のように付き合っている。

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マーク・マーフィ Mark Murphy | President/CEO |  Colgate |
前職 ノースウェスタン大体育局長 | 在任5年目 | 1955年7月13日生 56歳 |

第10代グリーンベイ・パッカーズ社長兼CEO。球団が市民所有であるため、代表としてオーナー会議などに出席する。かつてレッドスキンズでプロボウラーにも選ばれた優秀なセーフティで、現役時代に修士号、引退後には弁護士資格を取って法務省に勤務。その後16年間にわたって2つの大学の体育局長を務めた。2007年12月、名社長として偉大な業績を残したボブ・ハーラン社長(現名誉会長)の後任CEOに選出され、ここまで順調に大役をこなしている。

社長がGMを選びGMがヘッドコーチを選ぶという、前任者ハーランが築いたシンプルかつ効果的な命令系統を守り、元プロボウラーであっても基本的にフットボール部門には口を出さない。就任時にはすでにトンプソンGMがいたので、フットボール面での難局はファーヴ騒動ぐらいか。2011年夏に発表した総額$130ミリオンのランボーフィールド拡張が最初の大事業となる。また、地元自治体と合同でスタジアム周辺の再開発を行うプランも検討されているところ。

かつては地元の実業家、元市長、判事などが社長を務め、ボブ・ハーランが初めての州外出身者。そしてこのマーフィは「ウィスコンシンと何の縁もない」初めての社長となった。

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バッファローに近いニューヨーク州ウィリアムズヴィル出身。高校時代にはフットボール、野球、バスケットボールで活躍し、「西部ニューヨーク州最高のオールラウンド・アスリート」にも選ばれた。実家に近いコルゲート大に進み、1977年ドラフト外でレッドスキンズへ。名将ジョー・ギブスHCの下で頭脳派セーフティとして活躍し、5年間キャプテンを務めた。1982年シーズンにはスーパーボウル制覇。翌1983年にはNFL最多の9インターセプトを挙げてオールプロに選ばれている。

現役を続けるかたわらアメリカン大の大学院に通って財務の修士号を取得。その頭脳とリーダーシップが認められ、1980年から引退の84年までレッドスキンズの組合代表を務めた。うち2年間は選手組合の副会長として、ストライキのなか団体交渉の中心メンバーとなった。コミュニティでの慈善活動にも熱心で、1984年にはレッドスキンズの”Man of the Year”にも選ばれている。

引退後の数年間は選手組合の副事務局長を務めつつ、ジョージタウン大のロースクールに通って弁護士資格を取得した。1988年に卒業するとそのままワシントンD.C.の法律事務所に就職。翌1989年には司法省に移って法廷弁護士となり、さまざまな訴訟において政府機関の弁護を担当した。

その親しみやすい人柄や話術を活かし、現役時代から引退後までラジオ番組のトークショーに出演、スポーツ解説やスポーツ関連の法律問題を解説していた。

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1992年、母校コルゲート大の体育局長に就任。いまに至るスポーツ・エグゼクティブの道へと踏み出した。「体育局長」とはプロ球団でいえばGMにあたるが、フットボールだけでなく全スポーツ部の人事を司るきわめて重要なポストだ。フットボール部は11戦全敗から立ち直り、3年連続でディビジョンI-AAのプレーオフ進出を果たした。彼が去った翌年にはチャンピオンシップに進出。奨学金を出さないプログラムとしては大変な偉業であり、今でも彼の最大の誇りの1つだという。

コルゲート大で11年間過ごした後、その手腕が認められてノースウェスタン大の体育局長に招聘された。今度は19のスポーツを抱える予算$40ミリオン/フルタイム職員160人の大所帯だ。彼の4年半の任期中、全米制覇が各部合計で3回、カンファレンス優勝が9回。個人種目でも全米制覇が8回、カンファレンス優勝が34回。強豪とはいえないフットボール部も2回ボウルゲーム出場を果たした。それに加え、2007年には学生アスリートの卒業率が98%にのぼり、ノートルダム大と並んで全米1位となった。

パッカーズでは2007年5月、ハーラン社長の後継CEOとなる予定だったジョン・ジョーンズに対して球団内部から反発の声が上がり(つまりは人望がなかった)、政権交代の数日前になってジョーンズを電撃解任。理事11人による選考委員会を作り、数か月かけて後任を選び直すことになった。

地元の人間を選ぶべきとの声もあったが、球団経営がビッグビジネスに成長したこんにち、NFLの複雑なシステムを理解し、政治家との折衝や球団間の人脈や労使問題など、多彩な能力が求められる。そこで白羽の矢がたったのがこのマーク・マーフィ。数回の面談で選考委員会の推薦候補に決定、理事会による承認を経て、パッカーズ第10代社長への就任が決定した。

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妻ローリーとの間に一男三女。一番下の娘がすでに大学生で、長女はハーバード大を卒業してニューヨークの銀行で働いている。趣味はゴルフ、フィッシング、クロスカントリー・スキー、ジョギングなど。パッカーズ毎年恒例の”Tailgate Tour”や毎年夏の5000mランニング大会にも参加するなど、一般ファンとの触れ合いも大事にしている。ノースウェスタン時代にはシカゴの2016年オリンピック招致委員会(リオに敗れた)にも加わっていた。

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updated : 2011/10/21